2014年回顧

2015年ベストを考えるべき時期が来ている訳だが、今年は極めて限定的な形でしか上げることが出来ない。何故なら、7月24日の「ゴジラ」公開前日以降、所謂 “absolutely no life” な状態に入ってしまったからだ。「ゴジラ」公開前日、とはつまり「ブレイキング・バッド」最終話「フェリーナ」がHuluで配信された日である。

「ブレイキング・バッド」に嵌まった人々が最終話を見たあと陥るという「バッド・ロス」に、私は陥っている暇がなかった。何故ならそのまま二巡目に直行したからだ。その後、ブルーレイ全話を入手して特典映像を見ながら三巡目を終え、現在四巡目と五巡目を並行して見ており(四巡目はS5E2)、「フェリーナ」はほぼ週一回見ている。それでも飽きない。完全な中毒状態である。

何が斯様な中毒状態を生み出すのか、は依然謎のままだ。

まず、テレビドラマが固有の作品性を獲得した、おそらくは最初期の最も優秀な作例になるだろう、と言うことはできる。映画館のスクリーンがほぼ映画の原初状態の「ライド」性重視に傾斜する一方(自然映画、連続活劇、史劇、カトゥーン、という最近の米国映画のラインナップは無声映画時代に回帰したように見える――で、これはこれで映画として正しい)、ケーブルテレビ制作のシリーズでは密度の高いドラマ性に傾斜した「作品」が制作されるようになり、例えばソダーバーグのような監督が劇場映画から手を引き、テレビに活動の場を移すと宣言するところからすれば、今後もこの傾向は続くと期待できる。つまり、「ブレイキング・バッド」は飽くまである傾向の中の初期の一作であり、実際、デヴィッド・フィンチャーは「ハウス・オブ・カード」でこの路線を追求中だ――成否は第一シーズンを見ただけではまだはっきりしないが。

そして、所謂人間ドラマを見せるとなると、テレビドラマ固有の視聴者との関係形成は非常に有利に働く。精々二時間強の時間枠で見せる映画とは異なり、ドラマは長時間(「ブレイキング・バッド」の場合は全編で五十時間弱)の持続と反復によって、登場人物と彼らが生きる世界を視聴者により強く結び付けることができる。延々と何シーズンも続くシリーズもの、特にホームドラマの視聴者にとってはお馴染みの現象だ。「ソプラノズ」が先鞭を付けたアプローチを「ブレイキング・バッド」は更に徹底しており、更に効果を上げている。これは、本当にちゃんと処理できるのか疑問を感じるくらいの数の登場人物を投入し得体の知れない裏設定を次々に繰り出しては視聴者の関心を繋ぎとめようと悪足掻きして、案の定訳のわからないことになるドラマの対極にある。テレビドラマの尺は映画に比べれば長いが、それでも無限という訳ではなく、十分に展開できる要素の数には限界がある。絞り込めるだけ絞り込む、はここでも有効だ。

「ブレイキング・バッド」はそこに、充分以上の実力を持つバイプレイヤー級の役者を導入する。どこかで見たことがある、程度だった何人かはこのドラマによって、忘れ難い印象と名を残すことになるだろう。マイク・エルマントラウトを演じたジョナサン・バンクス、ガス・フリング役のジャンカルロ・エスポジート、ソール・グッドマンとしてスピンアウトの主演が決まっているボブ・オデンカーク、メス・デイモンの異名まで付いたトッド・アルクィスト役のジェシー・プレモンズは確実にそうであり、ハンク・シュレイダー役のディーン・ノリスに至っては、「アンダー・ザ・ドーム」や「悪の法則」を見ていてさえ、何故ここにハンクが、と一瞬困惑するような有様だ。バイプレイヤー級の役者がバイプレイヤー級であるのは理由のないことではなく、時として、余りに巧すぎる、が原因となることさえある訳だが、テレビドラマの尺と視聴空間のありようは彼らから十分以上の魅力を引き出すことができる。

そしてその中心には、勿論、余りにも達者すぎてどこにでも出ていたのに全く覚えていなかったのが、今となっては信じられないくらいのブライアン・クランストンと、キャリアこそ浅いがほぼ互角の仕事ぶりを見せたアーロン・ポールが来る。

殆ど動物観察番組のように、どこまでも外側から捉えられる主人公ウォルター・ホワイトの存在は、おそらくこのドラマの最大の見ものだ。体重を五キロ――一説では八キロ増やして撮影に臨んだブライアン・クランストンは芸達者な渋い二枚目だが、このドラマにおいては終始、冴えたところの欠片もない中年男にしか見えない (「サタデーナイト・ライブ」で軽やかに歌って踊るのを見て比較していただきたい――ウォルター・ホワイトをやってる時には、机の上に上がるのさえ大儀そうだったのに)。特に脱いだ場面においては、その裸体の緩んで濁り切った重さはある種の嫌悪感さえ感じさせる。潔癖性の女性は目を背けるだろう。そこに、子供じみた我儘や癇癪、不似合いな気取りや頭を抱えるしかない自惚れ、小心や狡猾や邪悪が滲み出てくる様は醜いとしか言いようがない訳だが、ブライアン・クランストンはそういう状態に、困ったことに、素の彼の三割引くらい見苦しいまま妙な艶を絡ませて来る。つまり、どうしようもなく醜悪な瞬間に得体の知れない魅力が現れ、一番始末に負えない瞬間において妙に可愛らしいのだ。

我儘で醜悪な中年男が、病んで死んで行こうという最後の二年間に、一切の拘束を振り切り、モラルなき世界へと下降して行く――それこそが最も理想的な自己の実現だったというドラマは、どうしようもなくダウナー系でありながら独特の断ち難い魅力を備えている。おそらく一番近いのは、エリッヒ・フォン・シュトローハイムの諸作――特に「グリード」だろう。救いのない醜悪な世界の――物質の――肉のこの上なく邪悪な魅力を捉える視線も良く似ているし、逃れ難い汚辱の分厚さを描き切るのに長大な時間を必要としたという点でも良く似ている。ただし、「ブレイキング・バッド」の五十時間は制作会社の完全な合意を得ている訳だが。これが映画であることとテレビドラマであることの決定的な相違だ。

一方、末期癌を宣告されて自暴自棄になった中年男の破滅的な解放に巻き込まれて地獄を見るちんぴら、ジェシー・ピンクマン役のアーロン・ポールの、傷付きやすい初々しさは殆ど信じられない程だ。彼の存在は主人公との対比において効果的なコントラストを提供する。ウォルター・ホワイトが切り開く荒廃した世界に引き摺り込まれるにつれ、清らかな明るい暖かさを求めて足掻くようになるジェシーというキャラクターを欠いていたとしたら、このドラマは、こんなにも恍惚とするしかない荒みようを見せることはなかっただろう。一つ危惧があるとすれば、この役柄への嵌りようが余りにも素晴らしすぎたことだ。全く別種の役柄でキャリアを積んでくれることがこれほど望まれる俳優もいない。

そう、一言で言うなら、うっとりするような荒廃、だ。ちなみに、第三シーズンの冒頭のサンタ・ムエルテの祠への願掛けで突然出現するカルテルの殺し屋兄弟、は、絶妙な非現実性によって糞リアリズムを超えた色彩を持ち込み、このどうしようもなく無道徳に荒廃したドラマの無道徳な荒廃ぶりに殆ど掟破りの造形を実現する可能性を開くのだが(ただし、国境の南には途轍もなくマッチョな無法のワンダーランド、ハンクの言葉を借りるなら「アポカリプス・ナウ」が広がっている、というのが、美しすぎる妄想であることには注意すべきだろう――「ザ・メキシカン」で既にギャグになっている妄想であり、メキシコ人には大いに受けたと思うが)、この絶妙な均衡点のずらしをどう評価するかによって、全体の評価は変わってくるだろう。古典的なリアリズムの観点からすれば失調に見えるかもしれないが、そこで出現する殆どグラフィック・ノベル的なあり得なさは、既に幾つもの映画で実証されているように、この上なく美しい。

一応、映画の方のベストを順不同であげておく。

「ウルフ・オブ・ウォールストリート」
「Life!」
「ベイマックス」
「フューリー」

「ウルフ」はただもう狂気の沙汰の映画であり、スコセッシとしては「グッド・フェローズ」に並ぶくらい好き、ということになる。「Life!」はドラマとライドを器用に両立させた映画であり、意地悪に言うなら中途半端だ。「ベイマックス」の満足感は2014年度ではトップに来る。「フューリー」は、戦車戦すげえ、以上に、異様な災厄感を持った戦争映画であり、戦死者をブルドーザーで埋めている、道に何度も轢かれてするめみたいになったドイツ兵の死体が落ちているが誰も気にせず踏んで行く、街に入ると吊るされたドイツの非戦闘員の死体がぶらぶらぶら下がっている、藪の中から子供ばかりの部隊が襲ってくる、一夜明けるとエンコした戦車の周りにドイツ兵の死体が塵のごとく散らばっている、等の描写においてSAN値の削られようが大抵ではないのだが、これまたテレビシリーズの「パシフィック」という空恐ろしい代物があったことを考えると、遅れを取っていることは否めない。

「グランド・ブダペスト・ホテル」と「ジャージー・ボーイズ」を見損ねたことが惜しまれる。