物言わぬ彫像と二人の愛人

昭和の御代のヒット曲に、「あなたならどうする」というのがあった。ジュディ・オングかな? 途中でこういう歌詞が出て来る。

私のどこがいけないの
それともあの人が変わったの

子供時代に聞いた曲というのはイントロ当てさえできそうなくらいよく覚えているんだが、今になると時々、よく考えてるなあと感心することがある。

この歌詞を理解するには一つ、前提がある——この女はどうしようもなく愚かだ、という前提だ。昔の歌に出て来る女たちは兎も角愚かで、その愚かさ故に哀れで愛すべき存在だったのだが、その典型として、男の愛を得るためならなんでもする、という愚かさがある(奥村チヨの「恋の奴隷」とかさ。まだ歌えるw)。これが何故愚かかと言えば。

愛とはそういうものではないから、だ。

当時はまだ共依存という言葉はなかった。だからこれは十分に愛の歌であり、馬鹿な女の馬鹿な愛だねえ可哀想に、であり、おそらくだが特に男性リスナーには深い満足を与えたのだと思う。今日、こうした歌のヒロインのプロファイリングは容易だ。駄目な男とばかりくっ付き、殴られ、それでも離れられず、捨てられそうになるとこう言ってしがみ付き、蹴り出されると、泣くの歩くの死んじゃうの、と言いながら次の殴ってくれる男を探しに行く。勿論、そんな女に目を付ける男もまた病人で、多分殴りながら死ぬほど悩んでその苦悩を女のせいにしてまた殴る。あなたに必要なのはまず適切なカウンセリングです、みたいなものを、人類はもはや愛とは呼ばない。これは私が生きている間に見た最も大きな進歩の一つだ。

自分をどう変えたところで、愛が得られるものではない。愛というのは自発的で自由なものだ。愛さずにはいられないから愛するので、どれほど相手が至らない場合でもそれは起こる。もし相手が、髪を染めろと言えば染め、顔が気に入らないから整形しろと言えば整形し、あなた好みの女になりたいと言うから愛してやるのだとすれば、それは愛ではない。単なる支配欲の充足であり、勿論、より一層の充足を求めるなら、決して相手に満足せず要求し続けることになる。

愛、の範囲をより広く設定すれば、事はよりはっきりする。あなたが一匹の猫を愛するのは、愛さずにはいられないからだ。一本の立木を愛するのも、愛さずにはいられないからだ。対象が目の前に現れると、もう愛さずにはいられない。或いはやむを得ない事情で相手が自分の生活に侵入してきた時、最初は手を焼きながらも、結局は愛することになる。一向に実を付けなくても、枝振りが今ひとつ冴えなくても、毎年アメリカシロヒトリが発生して枝打ちを繰り返すことになっても、水をやり、肥料をやり、日照を調整し、季節が来ると毎日毛虫の発生をチェックするのが、或いは、耳ダニが発生すれば耳掃除をし家具で爪を研ぐのが治らなければ爪研ぎ板を導入してみるのが愛だ。もしそうした諸々が気に入らず対策も功を奏さないから、というので斬り倒すとか保健所にやるとかするのだとすれば、愛はそもそもなかったか、その程度のものであったか、ということになるだろう。

愛は存在そのものに向けられるので、それがこうであるからとかああであるからという様態に向けられるものではない。私のどこがいけないの、とか、あなた好みの女になりたい、とかが根本的に愚かで、愚か故に歌になるのは、野蛮な昭和においてさえその事実が広く認識はされていたからだろう。

愛は時として一方通行だ。立木が比喩以外の意味で「愛に応える」事はない。猫は基本的に好き勝手なものだ。だが、散々手間を掛けさせた立木が立派になった時、拾った猫が自分に愛着を示したと思われた時、我々は、応えてくれた、とか、報いられた、という感動を覚え、愛は一層深まる。実際に立木や猫が応えたり報いたりするものかどうかは確認不能だが。人間の場合も同様だ。

では対象が芸術作品の場合はどうか、というのが、今回の本題である。

ある作品に対する愛がどう芽生え、どう深まっていくのか、愛好家はよく知っているだろう。最初にあるのはしばしば噂だ。人間の場合と同様だ。良い噂であることも悪い噂であることもある。良い噂であれば、是非見てみたいと思う(視覚芸術の場合は)。反発を覚えることもある——そんなにご大層なものかどうか見極めてやろうじゃないか。悪い噂であれば、それならスルー、も多いが、自分の目で確認してみたくなることもある。全くの不意打ちもあり得る。長い間側にあって気にも留めていない、ということもある。ずっと悪感情を持っていることも、時としてはある。いずれも、対象が人間の場合にもよくあることだ。

愛は突如として芽生える。悪感情を持ち続けていた絵画が、些細な発見で突然、心に響く。気にも留めていなかったカレンダーの絵が、ふいに悪くないものに見えてくる。一目惚れもあり得る。良い噂に胸をときめかせて、或いはシニカルな好奇心を抱えて見に行き、実物を前に立ち竦む——噂通りに、或いは噂に反して、惹き付けられる。そこから全てが始まる。何も感じない場合も、憎むこともある。これもまた相手が人間の場合と同様だ。

そしてこの場合の愛の対象は無生物だ。愛に応える可能性は立木にも増してないが、それでも蜜月はあり得る。対象をもっと知りたいと思う。何がこの愛を引き起こしたのか突き止めたくなる。繰り返し眺める。細部に至るまで目に焼き付けようとする。頭の中で再構成してみる。論考を漁る。周辺作品を総まくりする。歴史の中に置き直して納得する。音楽ならありとあらゆる演奏を聴いてみる。スコアを買い込む。楽曲分析を試みる。文学作品でも同じことだ。戯曲なら演出プランを練る。細かな瑕瑾に気が付くこともあるが、それで愛が冷めることは稀で、大抵は愛すべき瑕瑾となる。愛は盲目なのではなく、瑕瑾さえ対象の一部として愛することがまま起こりうる。関心が低下し、また戻って来ることもある。その過程が二十年三十年を超えることがある。そういう愛の過程において、作品は自らを開示する。その時、鑑賞者は「愛に応えてくれた」「愛が報いられた」と錯覚する。愛はしばしば唐突に終るが、記憶は残る。芸術の快楽はそういう場所にある。

勿論、何も感じない場合も、憎むこともある。憎むことはしばしば愛と変わりがない。同じような泥沼に踏み込み、何としてもその無価値を証明しようとすることさえあるが、何も感じない場合と同様、何も起こらないことの方が多い。出会いは不発に終わったのだ。

そういう場所で、愛してやらない、と宣言するのがどれほど滑稽なことかは言うまでもない。これこれだから愛してやらない、と条件を付けるに至っては尚更だ。作品は無生物であって、私のどこがいけないの、とか、あなた好みになりたい、とか言ってくれる可能性は万が一にもない。それはただそういう「物」なのであって、愛せないとしたら愛せない。出会いは不発に終わった、何も起こらなかった、或いは悪感情だけが残った。それだけだ。多少考え深ければ、或いは十分な経験を積んでいれば、何も起こらなかったのは、或いは憎むに至ったのは何故かを考えるだろう。そうした考察は「愛の技術」に益すること大だ。多くの初心者は憎むことから愛することを学ぶ。中学生や高校生の頃、何かの作品を激しく憎み忌み嫌った経験のない芸術愛好家は殆どいないだろう。誠実な省察の対象となるなら、憎悪は有益だ。突然良さがわかる、突然好きになる、という経験は、その後でなければ意味をなさない。

芸術作品と近接したところにポルノグラフィがある。どちらも創作物で、その境界線は時として曖昧だ。アプローチによっては、ポルノグラフィを作品として鑑賞することも可能だろう。同様に、芸術作品をポルノグラフィとしてしか消費しない人々もいる。作品への、時としては困難な愛を知らない人々、愛して報われたと思うまでに四半世紀も掛かる作品や、それでも拒否しか返って来ない作品があることを飲み込めない人々、いつも愛想良く迎え入れ、苦もなく望み通りの姿で傅いてくれる、それこそ「恋の奴隷」や「あなたならどうする」の女のような作品だけをよしとする人々だ。

その典型が、去年くらいからtwitter上で矢鱈、愛を連呼している。愛というか、愛してやらない、をだね。こうでなければ愛してやらない、ああでなければ愛してやらないと矢鱈騒々しい。どうもこの人は恋人としては最低最悪でありながら、自分の愛の値打ちを、皆が競って得ようとするほど値打ちのあるものだと思っているらしい。そして当の作品が十分に愛想良く自分を迎え入れてくれないと感じると、背後に、愛してくれと叫ぶ製作者の声が聞こえるのだという。それはまた何という空耳か。補聴器の調整に行った方が良くはないか。

製作者にとって作品は、娘というのでなければ、最初の恋人になることを許してくれた若い女、みたいなものだ。丹精して花開かせ、最後には自分のもとを去って行く。製作者はそのいいところも悪いところも全部知っているつもりでいる。一緒に殆ど恍惚とするような瞬間を味わったこともある。実際には、猫と同じく、そういうつもりでいる、に過ぎないとしても。自分のもとを去る時には、もっと素晴らしい可能性を他の誰かが引き出してくれることを祈って送り出す。大抵は惨憺たることになる。私のどこがいけないの、とか、あなた好みの女になりたい、とか無理矢理にでも言わせたい鑑賞者のもとで非道い目に遭っているのを見ると胸が痛む。彼女にはもっと値打ちがあるんだよ。それがわからないのかね。

製作者と作品と鑑賞者というのはそういう関係だ。この人は根本から勘違いしている。製作者は鑑賞者の愛なぞ全く期待していない。鑑賞者と作品との愛を願っているだけだ。幾ら殴ろうと蹴ろうと罵ろうとけして「あなた好み」になど変ることのない作品が、自らを開示するだけの愛を向けられることを願っているだけなのだ。