「吸血鬼」電子書籍版、予約受付中です

一月に講談社から出た「吸血鬼」ですが、電子書籍版をKDPで販売します。

吸血鬼

 

 

非常に地味な表紙なのは、ミルキィ・イソベ氏の仕事が素晴らしすぎて、競る気力を失ったからです。おそらく今後は基本的にこのパターンで行くと思います。プロには勝てねえ。

ちなみに紙媒体の本の方、本文の字配りもよく考えて下さっています。実に美しい本です。そちらもよろしく。

他の電子書店での販売をご希望の方は、その旨言っていただければ対応します。

2015年回顧

2015年に見た映画のベストは以下の通り。

1. マッド・マックス 怒りのデス・ロード

これはもう歴史的な傑作といっていいと思う。劇場で見なかった方々が不憫すぎる。重量物がほぼ終始絶え間なく動き続けるダイナミズム。その間を動き続け塵屑のように死んで行く小さな脆い人体。奇形的な男たちに対する「妻たち」の身体の奇跡のような清らかさ。内燃機関駆動の自動車が生きもののように魅惑的であり、その魅惑が登場人物たちをも呪縛している(最大限の賞賛の言葉が「シャイニー」で「クローム」で、特攻の前には口=フロントグリルに銀スプレー。彼らは自動車になりたいのだ)。特に感心したのはエレメントの使い方で、爆炎と土埃と風で心理的にからからに干涸びたところに水を大量放出するとそれでだけで一定のカタルシスが生じるんだが、この映画の最後の大量放出は涙が出るくらい美しい。

2. スペクター

007、ついに007になる。笑えるくらい007すぎて殆ど007のパロディだが、それでも真冬の湖の光景は身震いするくらい美しい。ロンドンをこれほど美しく陰鬱に捉えた映画はちょっとない。まごうことなきサム・メンデス作品。ある意味、俺に007は合わねえ、サム・メンデスだから、って投げ出して終り、なのかもしれない。

評価が結構割れるのは、007を見たいのかサム・メンデスを見たいのか、に左右されるからだろう。私はサム・メンデスが見たかったんで大満足だが、007が見たかった人たちには映像が厚すぎて邪魔かもしれない。

3.

ここを空けておくのは「神々のたそがれ」を見なかったからである。絶対に好みなんだが。暑い時期に重要な作品を公開するのはやめてくれ。

この先は劇場公開されていない作品になる。

4. ビースト・オブ・ノー・ネイション

netflixオリジナル。劇場公開の目処が付かない作品を買い取ってオリジナルとして公開、ということらしい。

netflix上陸は一部では黒船来寇で大騒ぎだったが、地上波を離れる層はもう離れちゃってるので、それほど影響はないと思う。むしろ打撃を被るのはレンタルだろう。ただし、netflixのただならぬ糞真面目さというか腰の座り方は大したものだ。

筋書きは極めて単純で、アフリカの子供が内戦で家族を失い軍閥に拾われて悪名高き「子ども兵」として活動後、保護される。始まった瞬間に、堪忍しろよ、と思ったのは主人公を演じる子供のモノローグで始まることで、子役にこの調子で続けさせるとメンタルにおかしくなるぞと思ったからだが、ナレーションのみならず演技でもきっちり人相変わるまでやってくれる。大したものだ。次々に展開される光景は既にカーツ大佐の王国であり、ドラン橋の向こうの世界が今やすぐそこに溢れ返っていることを痛感させる。必見。

でも、これがnetflixオリジナルで、故に大して話題になってないのは大問題だと思うんだが。

5. ロシアン・スナイパー

多分DVDだけ。

この映画の女性像は凄まじくリアルだ。人をすぱんすぱん撃つのは間違いなく愉快なことで、一度味をしめると男なんかどうでもいい(というか、自分が女であること自体がどうでもよくなる。愉快すぎて。でもまあ確かに毛糸のパンツはいるね)。お国もお墨付きをくれている。エロエロする野郎はうざいだけ。うざくないのは狙撃行を共にする相棒兼コーチのみで、結果、コーチとは必ず寝る。ただし、子ども兵と同様で、兇行の精神的ダメージはじわじわ効いてくる。

この美人だけど愛想も素っ気もない女が参戦アピールの為にアメリカに派遣され、やった人数を訊かれて309人と答える場面は実にいい。周囲はどん引きだが、本人も言ってからどん引き。挙句にウディ・ガスリーに三百人殺しの歌まで捧げられる。ルーズベルト夫人から貰ったワンピースを着る場面もいいぞ。立ち方も体の起こし方も肩の構え方も軍服仕様になっちゃってるんで、男にワンピース着せたような有様になってて無闇とごついw 大統領夫人の理解と援助があってなお女還りは無茶苦茶難儀w でも、最終的には女ぶりっこできるところまで行く。「いつまで女の陰に隠れてるつもり」って言うの、まあ情けないんだけどさ。

こういう女性のイメージがロシアから出て来るというのも驚きだ(「デイウォッチ」の特典映像で中に男の入ってる女の役をやった女優の苦労話を見た人にはお分かりだろう——サンドウィッチ頬張りながら胡座かいてテレビでスポーツ中継見て万歳してうぉおっと叫ぶ、だけでも一苦労らしいから。いや普段から普通にやってる、と言える国じゃないんだよ)で、実のところこの、ワンピース着ても頑張らないと女に見えない難儀、って、非常に多くの女性が人生のどこかで直面するものなのよ。あー女やるんすか、まあ是非にと仰るならやらないこたぁありませんがね、面倒臭ぇな。

ちなみにこの映画の男どもはひたすら可哀想。ロシア小説的男の純情やって肥やしになってるだけで、その意味では魔女の話だ。映像に無駄はない。砲撃で生き埋めとか、糞リアルだろうと思われる場面が矢鱈あるのも買える。

あと、「椿姫ラ・トラヴィアータ」がすごく効いてる。確かに道を踏み外しトラヴィアってるからね、別な方向に。

番外編:ホロウ・クラウン

Hulu。噂には聞いていたがこれはすごい。まだ最初の三回で「リチャード二世」が終わったばかりだが、見てて目が——というか耳が離せない。ほぼシェイクスピアまんまをテレビドラマ化なんだが、それがこれほど面白く、かつ、科白が一々すごすぎて耳の幸せ、なんてことが可能なのね。取り敢えず王権という憑物が剥がれて人間になって死ぬ——どころか聖人になって死ぬベン・ウィショー君に拍手。こんなにいい役者だなんて思ったことなかった。ボリングブルック役のRory Kinnearもいい。この後も、トム・ヒドルストンだのベネディクト・カンバーバッチだのの英国演劇界の誇るきらきらどころが続々登場の予定である(ヒドルストンのハル王子だけは極めて心配——「ソー」の最新回でアンソニー・ホプキンスに物凄い馬鹿にされ方してただろ、中にトムヒの入ってるホプキンス、という超かったるい駄目な芝居で)。乞うご期待。

最後に一点。今年は矢鱈スパイ映画が多かった。「M.I.」と「ワイルド・スピード」含めると。で、どれも映画としちゃ上出来なんだが、何か釈然としないのは、「悪」が余りにも普通に見えることだろう。というか、一々問題にするから話が大事になるんで実は皆さんやってるでしょ普通に。データ処理のアウトソーシング受注とか、それ悪って言うか、みたいな。スペクターの果てまで砂漠のど真ん中にデータセンター作ってダミーに入札させてる。で、暮のパリのテロみたいな大惨事を防ごうと思ったら007は必要なくて、そこらでヤクザ締めたり不良少年脅したりしてるようなお巡りの仕事になっちゃう訳だ。こういう問題は後々効いてきて、どこかで大コケすると思う。その顕著な現れは、クライマックスのチェイスでバックシートに座ってひたすらキーボード叩いてるギーク、という役回り。あれ今年何度見た? ちょっと考え直した方がいいぞ、そろそろ笑えるから。

以下の電子書籍の販売を開始します

 

2016年1月1日から、以下の電子書籍を販売します。

amazon.co.jp (amazon.com他国外でも入手可能)


1809

 

 



天使

 

 


雲雀

楽天Kobo

1809
天使
雲雀
iBook Storeでの販売は一月半ば以降になります。

タブレットをお使いの場合は、それぞれのアプリをダウンロードいただければ読めるかと思います。

文藝春秋社刊行の以下の書籍(紙媒体のみ)も順次、電子書籍化していく予定です。

バルタザールの遍歴 (文春文庫)
戦争の法 (文春文庫)
激しく、速やかな死

物言わぬ彫像と二人の愛人

昭和の御代のヒット曲に、「あなたならどうする」というのがあった。ジュディ・オングかな? 途中でこういう歌詞が出て来る。

私のどこがいけないの
それともあの人が変わったの

子供時代に聞いた曲というのはイントロ当てさえできそうなくらいよく覚えているんだが、今になると時々、よく考えてるなあと感心することがある。

この歌詞を理解するには一つ、前提がある——この女はどうしようもなく愚かだ、という前提だ。昔の歌に出て来る女たちは兎も角愚かで、その愚かさ故に哀れで愛すべき存在だったのだが、その典型として、男の愛を得るためならなんでもする、という愚かさがある(奥村チヨの「恋の奴隷」とかさ。まだ歌えるw)。これが何故愚かかと言えば。

愛とはそういうものではないから、だ。

当時はまだ共依存という言葉はなかった。だからこれは十分に愛の歌であり、馬鹿な女の馬鹿な愛だねえ可哀想に、であり、おそらくだが特に男性リスナーには深い満足を与えたのだと思う。今日、こうした歌のヒロインのプロファイリングは容易だ。駄目な男とばかりくっ付き、殴られ、それでも離れられず、捨てられそうになるとこう言ってしがみ付き、蹴り出されると、泣くの歩くの死んじゃうの、と言いながら次の殴ってくれる男を探しに行く。勿論、そんな女に目を付ける男もまた病人で、多分殴りながら死ぬほど悩んでその苦悩を女のせいにしてまた殴る。あなたに必要なのはまず適切なカウンセリングです、みたいなものを、人類はもはや愛とは呼ばない。これは私が生きている間に見た最も大きな進歩の一つだ。

自分をどう変えたところで、愛が得られるものではない。愛というのは自発的で自由なものだ。愛さずにはいられないから愛するので、どれほど相手が至らない場合でもそれは起こる。もし相手が、髪を染めろと言えば染め、顔が気に入らないから整形しろと言えば整形し、あなた好みの女になりたいと言うから愛してやるのだとすれば、それは愛ではない。単なる支配欲の充足であり、勿論、より一層の充足を求めるなら、決して相手に満足せず要求し続けることになる。

愛、の範囲をより広く設定すれば、事はよりはっきりする。あなたが一匹の猫を愛するのは、愛さずにはいられないからだ。一本の立木を愛するのも、愛さずにはいられないからだ。対象が目の前に現れると、もう愛さずにはいられない。或いはやむを得ない事情で相手が自分の生活に侵入してきた時、最初は手を焼きながらも、結局は愛することになる。一向に実を付けなくても、枝振りが今ひとつ冴えなくても、毎年アメリカシロヒトリが発生して枝打ちを繰り返すことになっても、水をやり、肥料をやり、日照を調整し、季節が来ると毎日毛虫の発生をチェックするのが、或いは、耳ダニが発生すれば耳掃除をし家具で爪を研ぐのが治らなければ爪研ぎ板を導入してみるのが愛だ。もしそうした諸々が気に入らず対策も功を奏さないから、というので斬り倒すとか保健所にやるとかするのだとすれば、愛はそもそもなかったか、その程度のものであったか、ということになるだろう。

愛は存在そのものに向けられるので、それがこうであるからとかああであるからという様態に向けられるものではない。私のどこがいけないの、とか、あなた好みの女になりたい、とかが根本的に愚かで、愚か故に歌になるのは、野蛮な昭和においてさえその事実が広く認識はされていたからだろう。

愛は時として一方通行だ。立木が比喩以外の意味で「愛に応える」事はない。猫は基本的に好き勝手なものだ。だが、散々手間を掛けさせた立木が立派になった時、拾った猫が自分に愛着を示したと思われた時、我々は、応えてくれた、とか、報いられた、という感動を覚え、愛は一層深まる。実際に立木や猫が応えたり報いたりするものかどうかは確認不能だが。人間の場合も同様だ。

では対象が芸術作品の場合はどうか、というのが、今回の本題である。

ある作品に対する愛がどう芽生え、どう深まっていくのか、愛好家はよく知っているだろう。最初にあるのはしばしば噂だ。人間の場合と同様だ。良い噂であることも悪い噂であることもある。良い噂であれば、是非見てみたいと思う(視覚芸術の場合は)。反発を覚えることもある——そんなにご大層なものかどうか見極めてやろうじゃないか。悪い噂であれば、それならスルー、も多いが、自分の目で確認してみたくなることもある。全くの不意打ちもあり得る。長い間側にあって気にも留めていない、ということもある。ずっと悪感情を持っていることも、時としてはある。いずれも、対象が人間の場合にもよくあることだ。

愛は突如として芽生える。悪感情を持ち続けていた絵画が、些細な発見で突然、心に響く。気にも留めていなかったカレンダーの絵が、ふいに悪くないものに見えてくる。一目惚れもあり得る。良い噂に胸をときめかせて、或いはシニカルな好奇心を抱えて見に行き、実物を前に立ち竦む——噂通りに、或いは噂に反して、惹き付けられる。そこから全てが始まる。何も感じない場合も、憎むこともある。これもまた相手が人間の場合と同様だ。

そしてこの場合の愛の対象は無生物だ。愛に応える可能性は立木にも増してないが、それでも蜜月はあり得る。対象をもっと知りたいと思う。何がこの愛を引き起こしたのか突き止めたくなる。繰り返し眺める。細部に至るまで目に焼き付けようとする。頭の中で再構成してみる。論考を漁る。周辺作品を総まくりする。歴史の中に置き直して納得する。音楽ならありとあらゆる演奏を聴いてみる。スコアを買い込む。楽曲分析を試みる。文学作品でも同じことだ。戯曲なら演出プランを練る。細かな瑕瑾に気が付くこともあるが、それで愛が冷めることは稀で、大抵は愛すべき瑕瑾となる。愛は盲目なのではなく、瑕瑾さえ対象の一部として愛することがまま起こりうる。関心が低下し、また戻って来ることもある。その過程が二十年三十年を超えることがある。そういう愛の過程において、作品は自らを開示する。その時、鑑賞者は「愛に応えてくれた」「愛が報いられた」と錯覚する。愛はしばしば唐突に終るが、記憶は残る。芸術の快楽はそういう場所にある。

勿論、何も感じない場合も、憎むこともある。憎むことはしばしば愛と変わりがない。同じような泥沼に踏み込み、何としてもその無価値を証明しようとすることさえあるが、何も感じない場合と同様、何も起こらないことの方が多い。出会いは不発に終わったのだ。

そういう場所で、愛してやらない、と宣言するのがどれほど滑稽なことかは言うまでもない。これこれだから愛してやらない、と条件を付けるに至っては尚更だ。作品は無生物であって、私のどこがいけないの、とか、あなた好みになりたい、とか言ってくれる可能性は万が一にもない。それはただそういう「物」なのであって、愛せないとしたら愛せない。出会いは不発に終わった、何も起こらなかった、或いは悪感情だけが残った。それだけだ。多少考え深ければ、或いは十分な経験を積んでいれば、何も起こらなかったのは、或いは憎むに至ったのは何故かを考えるだろう。そうした考察は「愛の技術」に益すること大だ。多くの初心者は憎むことから愛することを学ぶ。中学生や高校生の頃、何かの作品を激しく憎み忌み嫌った経験のない芸術愛好家は殆どいないだろう。誠実な省察の対象となるなら、憎悪は有益だ。突然良さがわかる、突然好きになる、という経験は、その後でなければ意味をなさない。

芸術作品と近接したところにポルノグラフィがある。どちらも創作物で、その境界線は時として曖昧だ。アプローチによっては、ポルノグラフィを作品として鑑賞することも可能だろう。同様に、芸術作品をポルノグラフィとしてしか消費しない人々もいる。作品への、時としては困難な愛を知らない人々、愛して報われたと思うまでに四半世紀も掛かる作品や、それでも拒否しか返って来ない作品があることを飲み込めない人々、いつも愛想良く迎え入れ、苦もなく望み通りの姿で傅いてくれる、それこそ「恋の奴隷」や「あなたならどうする」の女のような作品だけをよしとする人々だ。

その典型が、去年くらいからtwitter上で矢鱈、愛を連呼している。愛というか、愛してやらない、をだね。こうでなければ愛してやらない、ああでなければ愛してやらないと矢鱈騒々しい。どうもこの人は恋人としては最低最悪でありながら、自分の愛の値打ちを、皆が競って得ようとするほど値打ちのあるものだと思っているらしい。そして当の作品が十分に愛想良く自分を迎え入れてくれないと感じると、背後に、愛してくれと叫ぶ製作者の声が聞こえるのだという。それはまた何という空耳か。補聴器の調整に行った方が良くはないか。

製作者にとって作品は、娘というのでなければ、最初の恋人になることを許してくれた若い女、みたいなものだ。丹精して花開かせ、最後には自分のもとを去って行く。製作者はそのいいところも悪いところも全部知っているつもりでいる。一緒に殆ど恍惚とするような瞬間を味わったこともある。実際には、猫と同じく、そういうつもりでいる、に過ぎないとしても。自分のもとを去る時には、もっと素晴らしい可能性を他の誰かが引き出してくれることを祈って送り出す。大抵は惨憺たることになる。私のどこがいけないの、とか、あなた好みの女になりたい、とか無理矢理にでも言わせたい鑑賞者のもとで非道い目に遭っているのを見ると胸が痛む。彼女にはもっと値打ちがあるんだよ。それがわからないのかね。

製作者と作品と鑑賞者というのはそういう関係だ。この人は根本から勘違いしている。製作者は鑑賞者の愛なぞ全く期待していない。鑑賞者と作品との愛を願っているだけだ。幾ら殴ろうと蹴ろうと罵ろうとけして「あなた好み」になど変ることのない作品が、自らを開示するだけの愛を向けられることを願っているだけなのだ。

電子出版を自分で始めるに至る諸事情

今回の件については幾らか説明が必要だろう。是非御理解いただきたい点は以下の通りだ。

I. 今後はKDP他の自己出版を作品公開の主たる場にしていく。自作を公開する場として、紙媒体の市場は必ずしも最適ではないと考えるに至ったからだ。

II. その主たる理由は、紙媒体化と流通を媒介する出版社のあり方に起因する。具体的に挙げるなら以下の通り。

i.  出版社と著者の間にある極端な非対称性。相手は大企業とは言えないまでも相当に大きな組織であり、著者は個人だ。そして両者の間には、稀に事後的に出現するもの以外、書面による契約はない。つまり制作・納入・製品化・販売の過程においてどのようなことが起ころうと、著者側にはそれに抵抗する手段がほぼない、ということになる。著者と出版社の間を繋ぐのは出版社の社員である編集者であり、極端な不利益を被らない保証は、この編集者の誠実さにしかない。

ii. その編集者の誠実さは、構造的な理由から、非常に疑わしい。人格として疑わしい、とまでいう気はない。実際、個人としては誠実であり信頼に値することもあるだろうと、私は今でも考えているが、そういう個人が誠実に振舞えない状況がしばしば出現する。考えられる理由は以下の通りだ。

a. よく言われることだが出版点数の極端な増加、および出版不況の定着により編集者一人当りの仕事量が増え続けていること。多くの編集者は、にも拘らず、誠実な仕事ぶりを維持しようとはしていると思う。が、個人の努力には自ずと限界があり、どこかで楽になりたいと思うようになるのは人間として当然の話だ。

b.  市場把握の甘さ。

・編集者から具体的な市場セグメントの話を聞いたことがない。データがないのではないかと疑っている。松本清張や三島由紀夫を日本中の本を読む人間なら誰でも読んでいた時代を懐かしみ、そういう本を目指している、と言うのを聞くことはよくある。が、当時の書籍市場は今とは比較にならないほど小さい。村上春樹の新刊はおそらく当時のベストセラーより部数を売るだろうが、書籍市場に占める割合においては比較にならないのではないか。芸能人に書かせるのもよく使われる手法だが、芸能人を知っていて有難がる層にしか訴求力はなく、そうした層自体が縮小しているのは地上波の低調でも明らかだ——まあ、その規模で十分ということかもしれないが、どの市場もそれだけ細分化されたところで往時を夢見ても仕方がない。

・そういう夢を見ているような観点からの提言はしばしば受けた——曰く、若い読者層を開拓すれば市場全体を広げることになる。ところで若年層が実際にどの程度の潜在市場なのか具体的な数字を挙げられたことはないし、その定着率も不明だ。webなどを介した個人的な感触では、多くの読者が就職を機に小説から離れ、更に三十代で脱落する。そうした中で本を読み続けるのは子育て中の主婦だが、狭い行動半径と制限された予算を余儀なくされる為、彼女らは図書館に向かう。この層を繋ぎ止め、子育てがひと段落付いた段階での購入へと繋げるには、むしろ図書館での貸し出しを積極的に推進するのが妥当だが、実際に出版社が望んでいるのはこの逆、というのは皆さんご承知の通り。この層は図書館で借りられなければ古書市場に向かうだろう。新刊市場には戻って来ない。

・具体的なデータの欠如、は編集者からの要請においても疑われる。例えばある時期、呆れるほどライトノベル的な書き方を要請される時期があった(地の文を少なく、会話を多く、状況は会話で説明、嬉しい時には嬉しいと、悲しい時には悲しいと書く、等など)。ただしその時期には既にライトノベルも市場の縮小が問題になっていた。何かが流行っている、という状況でそれを追い掛けて書き始めても遅い。そういう動向は事前に把握して仕掛けるのが当り前だ。

 ・おそらく小説の最大のヘヴィユーザー層は三十代以上の女性であり、ほぼ均質に六十代まで広がっているのではないかと思われる。量だけではなく、質においても最も高水準なものを望む読者だが、この層がターゲット、という提案は僅か一度しか受けたことがない。書籍市場においては完全に見失われたセグメントだ。

c. 上記の二つの要因——即ち多忙とマーケティングのほぼ完全な欠落から、編集者は託された原稿を既存の枠組に機械的に押し込んで流すしかない。ホラー・ミステリー・SF・歴史、といった枠組がそれにであり、予め十全な文学性が無条件に認められる文学と、予めあらゆる文学性を剥奪された非文学=エンターテイメントという区分が更にその上に重ねられる。出版産業の従事者は文学によって虚栄心を満たし、非文学によって稼ぐ。これはある種の身分制であり、後者から折々「養子」を取ることで閉鎖性の非難を躱そうとする(いやもうね、某社の文芸誌の編集者とか某新聞社の文芸記者とか、かつて担当だったことがあったりインタビューを受けたことがあったり大家の開いた集りで楽しくお話ししたりしたことがあっても、パーティで声を掛けるとそっぽ向いて返事もしないからね——あたくしはあなたのような身分卑しき者に声を掛けられる理由はございませんことよ。これは作家も同様。辻邦生が一々第三者を介してでなければ返事もしなかったこと思い出すわ。あの時の死んだ魚みたいな目な)。出版社が作品によって柔軟に分類して売る、該当枠がなければそれを作って売る(所謂市場創出型のマーケティングな)とかいうことは一切ない。これが産業としちゃまるで駄目な姿勢、ということはお分かりだろう。彼らはみすみす機会をどぶに捨てている。より具体的には、こちらが提供した作品を。

d. 個人としての編集者がどれだけ誠実であり、どれだけこちらの提供した作品を理解していてくれたとしても(それは非常に稀なことだ)、彼らは会社員である。つまり、社内的な保身の為に出入り業者(作家、だね、この場合は)を切ることはごく当り前にあり得る。通俗的なお話に基く社会通念では、担当編集者は作品の第一の理解者であり身を挺してでも作品を守るものだと思われているが、そういうことはない。あるとしても限度があり、その限度は弱小出入り業者である作家が安心して仕事ができるほどの水準にはない。価値がないものを書いている側に分類された作家であれば尚更だ。

iii. 「メッテルニヒ氏の仕事」について言えば、そういうことは二度起こった。最初は新潮社において。次いで文藝春秋において。つまり新潮社が例外ではなく、これは当り前に起こることだ。後者が商業作家として十五年、延命させてくれたことには感謝しているが、最終的には「メッテルニヒの業績なんてウィーン会議まででしょう」という元編集長の有難いお言葉(私は全ての編集者が高校の世界史履修レベルの知識を持っていることを期待したりはしていないが、それでもコングレス・システムやドイツ連邦全域共通の検閲制度の持つ意味について、比較的新しい通説に基いて書いた部分は目を通していると思っていた——いつまでもウェブスター、テイラー、って訳にもいかんでしょ)と共に終った。二度起これば、これは構造的な原因から来るものであって偶発的な不運ではないと判断するには十分だ。三度目を試す気にはなれない。完結させるには、紙の本の出版流通システムの外に出るしかない。

III. ついでなので、同社から出ていた本の電子出版は全部自分で仕切ることにした。同社は「メッテルニヒ氏の仕事」の掲載に及び腰になる過程で、紙の本の方をほぼ全て絶版にしている(何が起こったのかは、出版社の内部が作家の目からは完全なブラックボックスである為、言及しない——編集者がいきなり全員逃げ出すとか、後始末を押し付けられた若い編集者も投げて逃げ出すとか、結局また引き受けることになった編集者が一年以上音信不通とかいう状況からして想像は付くが。こういうのは出版産業では当り前なのだと諦めるしかない)。

IV. 講談社から一月に刊行予定の新刊、及びその後に約束している作品については、従来通りの手続きで刊行される筈である。確約は、上記の理由で不可能だ。ただし、現在紙の本が重版未定または絶版のものについては、契約更新をせずに手許に引き取り、文藝春秋刊のものと同様にする計画でいる。

V.「メッテルニヒ氏の仕事」は、先にも書いた通り、自分で電子出版で出す。以後もこれを基本とする。ただし、そうやって公表されたものを紙媒体で出版したいというところがあれば交渉には応じる。また、全文の雑誌掲載前提での執筆・出版にも応じる準備はある。短期的な取引なら問題が生じる可能性は少ないと判断したからである。

以下は個人的な追記のようなものだとお考えいただきたい。

「メッテルニヒ氏の仕事」の連載中断以後はかなり思い悩んだ。そして「吸血鬼」を書いている最中に、書くのがこれほど楽しく、出版すること——出版社と関わりを持つことがこれほど不愉快なのは何故なのかを考えて、結論に到達した。当てにならない他人に任せ続けることがそれほど不快なら、やめてしまえばいい。

現状、電子出版の見通しはそれほど明るくない。作家としての事実上の自殺だとは思うが、それでも生身の人間として死ぬよりは余程ましだ。少なくとも、楽しく書いていける。心労しかない二十五年の地獄の後で漸く青空が見えた気がする。人生の残り二十五年を、こんな虚しい取引に心を悩ませて過ごすよりは余程いい。